2011年2月3日木曜日

お題その1:「こむ」の用字

 
mixiのお友達からお題をちょうだいしました。
第1弾は
「レストランがこんでいる」は
「混む」か「込む」か?です。
 
 
持論ですが、
迷ったり、字面がしっくりこなかったりしたら、
やはり仮名書きに限ります。
じっさい、ひらがなのほうがきれいなときだってあるんです。
 
しかし「こむ」のように語幹が短い語では、
漢字表記のほうが読みやすい場合があるのも
また事実ですね。
 
では、それにふさわしい漢字とは。
 

2011年2月2日水曜日

E ALA Ē ~虹の彼方から雷

 
 
「好きな映画は?」という質問に出くわすと、私はたいてい『小説家を見つけたら』と答える。

『小説家を見つけたら』、原題 Finding Forrester は2000年公開のアメリカ映画。
ショーン・コネリーがちょいとクセのある大作家を演じる、味わい深い作品だ。




作品の見所にもふれて大々的にオススメしたいのだけど、それは次の機会にするとして。
今回は、その映画の音楽の話。
 




映画館でじんわり感動にひたるラスト。才能あふれる若き主人公は、大切な人との別れを乗り越えて、未来への決意を
新たにする。そんな余韻に包まれるエンディングで、ウクレレに乗せた男性アーティストの「虹の彼方に」が流れる。
ラストシーンからエンドロールにかけて流れるその歌声は、やさしいのにどこか寂しく、はるか遠くから懐かしく響くようでいて、
彼方へいざなうようで。うわあ、主人公の心情と境遇にすっごくマッチしているなあ~、と舌を巻いたものだ。




そんな感動があったからなのか、その男性アーティストの歌う「虹の彼方に」は強烈な印象を私に残した。

彼の歌うその曲を聴いたのはそれが初めてだったのだけど、それからというもの、「虹の彼方に」Over the Rainbow といえば、
彼の声をまず思い浮かべるようになってしまった。さまざまなアーティストがカバーし、合唱で歌ったことだってあるのに、
ほかのどのバージョンでもなく、彼のあの歌声、スウィングの曲調が、私にとっての代表格になってしまったのだ。




しかしそれだけ影響されていながら、アーティストが誰なのか調べることもせず、気付けば10年が経過していた。


 


しかし先日、ひょんなことから誰の歌声だったのかを知った。

ウクレレに Over the Rainbow とくれば、もうおわかりの方もたくさんいると思う。

そう、いまは亡きハワイの伝説的歌手、Israel "IZ" Kamakawiwo'ole(イズリアル・カマカウィウォオレ)だったのだ。




彼の歌声は「Tengoku kara kaminari(天国から雷)」という曲で、ひところしょっちゅう耳にした。
ハワイ出身の力士たちをリスペクトして「曙、武蔵丸 and 小錦」と歌っている、あれだ。

あの彼の歌だったとは! まさに「青天の霹靂」だった。


 


��Zは残念ながら、1997年に38歳の若さで亡くなっている。

死期を早めた遠因は肥満だというけど、体重が350kgほどあったというから、無理もない。




彼の声には確かに、体の大きな人に特有の少しくぐもった響きがある。

しかしそれが短所にならず、むしろおおらかな、温かい包容力のように感じられるのはなぜだろう。

決して誰のことも突き放さない、ありのままを認めてくれる……そんなふうに聴こえるのだ。
素直な発声、少し空気のまざった柔らかい声。聴く者をやさしく包み癒やす、天性の音色。
彼が亡くなったとき、ハワイでは半旗が掲げられたそうだ。


 


「Somewhere Over the Rainbow」は『Facing Future』というアルバムの中に、
「Tengoku kara kaminari」は『E ALA Ē』というアルバムの中におさめられている。
「E ALA Ē」とは、ズバリ「Thunder from Heaven」の意味。


 


Israel "IZ" Kamakawiwo'ole 「Somewhere Over the Rainbow」

ラストには、オアフ西部のマクアビーチでの彼の散骨式の様子が入っています。

全然悲愴ではなく、まるでお祭りのようです。まさにハワイ式。





 
 
 
 
 
 
 



2011年1月31日月曜日

マシュ・ケ・ナダのカタカナ発音

 
以前のブログに比べ、
ポルトガル語歌詞のスペルを修正し、
カタカナ発音をより「それっぽい化」しています。
(リオ訛りとかそういう感じ)
  
 
さらに、譜割りがわかりやすいように、
小節線代わりのタテ棒を書いてみました。
SERGIO MENDES & BRASIL '66 の楽譜を参考にしています。
休符とかは書いてないので、あくまで目安。
 
揺れて歌っている場合や、
引っ掛けて前に出したり
遅らせて後ろに押し込んだりしている場合は
うまいこと調整してください(笑)。
  

2011年1月26日水曜日

「メジカ≠雌鹿」である理由――四つ仮名のジ・ヂ、ズ・ヅ――

 
私が某新聞社の出版部にいたとき、
表記で本当に悩んだ経験がありました。

秋にとれる鮭の一種「目近」を
カタカナで表記している文を校正するにあたり、
これを「メヂカ」とすべきか
「メジカ」とすべきかで悩んだのです。
 

2010年11月27日土曜日

WILLCOMのWX341K Pレビュー2

さて、WILLCOMのWX341K Pのレビューの続きです。



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キーはこんな感じで出っ張っています。



見た感じ、キーの付け根に隙間はなさそうに見えます。



だからって、水滴に強いかどうかを試す気にはなりませんが(笑)。



 



 



十字キー、といえるかどうかはわかりませんが、ここにバウムクーヘン的な意匠がほどこされています。ここを親指で押下するとき爪を立てると、このミゾに爪の先端がおさまってしまい、うまく押せないことがあります。爪切りは必須ですね。



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ヘッドホンポートと、キーロックのスイッチです。



キーロックのスイッチは、上にスライドさせるとロックされます。ロック時、解除時とも、スイッチをいっぱいまでスライドしきると、かすかに「カチリ」という音というか感触というか、手ごたえがあります。



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このキーロック、待受画面でないと効きません。



どういうことかというと、たとえば電車内でWEBを見ていたとします。乗り換え駅に着いたのでWEBの画面のままポケットにおさめようとして、キーロックのスイッチをカチリとやったとしても、キーはなぜか生きているのです。



キーロック時の待受画面では、電源ボタンにのみ反応します。といっても、真っ暗になったバックライトを点灯させるだけで、電源オフはできません。iPodのホールドスイッチもせめてバックライト点灯にだけは反応してほしいなあと思っていたので、これはうれしい機能でした。



追記です。


アラームが鳴ったとき、キーロック時でもセンターキーの押下で音を止めることができました。ただし、連続アラーム(スヌーズ)を止めるためには、キーロック解除が必要でした。



 



 



USBポートです。micro-B端子ですね。おどろくほど華奢でこわいです。でも充電はここに毎回ケーブルをつなぐ必要はありません。写真下部に見えている白いクレードルが活躍します。



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反対側にある、SDカードポートです。



本体側面のシマシマが、ポートカバーのところでちょいズレてしまっているのがオシイ!という感じです。



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ストラップホールは左上にあります。穴の底がゆるやかな弧をえがいていて、ストラップを通しやすくなっています。ひもがつるりと反対の穴に誘導される感じです。



上部にはほかに、LEDの通知ランプ、赤外線ポートがあります。



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充電時、このLEDが赤く点灯するのですが、夜は意外にまぶしいです。鼻先に置いて寝ると目を閉じていても光を感じるので、就寝時は布(厚手のタオルハンカチ)を端末にかけることにしています(笑)。



 



〈続く〉



 



2010年11月23日火曜日

WILLCOMのWX341K Pに機種変更しました

機種変更前には、いつもレビューをたくさん見ますが、この機種や、同じ機能だというWX341Kはレビューがあまりありませんでした。



そこで、たまには自分で、写真付きのレビューをしてみようかなと考えました。



ちくちくとアップしていこうと思います。




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とりあえず、端末のアップ画像です。この色「ゴールド」はけっこうゴージャスな見た目です。セレブな感じだね~、と家族が言っておりました。



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撮影機材はSIGMA SD14です。



無謀にも手持ちで撮影したため、シャッター速度を稼ぐために絞りを開けぎみで撮っていますので、ピントの合っている範囲が狭いのですが、ご容赦ください。



 



 





キー部分のアップです。



数字の形に浮き彫りのようになっています。



店頭でコールドモックを触ってみたときにはキーを押下できている気がせず、ギュウギュウ押してみたものですが、実機は軽いタッチでも入力を認識してくれて、キーまわりはたいへん軽快です。



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キーのバックライトは蛍のような黄色です。ボディカラーに応じた色で光るようです。しゃれてますね。



(この画像のみ、富士フイルムのFinePixF40-fdで撮りました)



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背面上部です。おサイフケータイ対応です。



カメラの接写切り替えはハードスイッチです。向かって左側にはイヤホンポートがあります。



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背面下部です。WILLCOMのロゴがあります。



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ホコリまでしっかり撮れてしまっています。SD14の再現性には脱帽です。



 



 



〈続く〉



 





 



2010年9月29日水曜日

身軽

久しぶりに、「自分が変わりつつある」ということをハッキリ自覚している。

 
 
そういう変化を初めて感じたのは、17歳のときだ。
自分と、自分を取り巻く周囲を客観的に見渡すことを覚えて、
(というより、突然それができるようになり、)
(もしくは、自分がそれをしていることにハタと気付き、)
そのときはまだちっぽけな「全体」だったろうけど、そのときなりに「全体」を俯瞰することの有用さを知った。

組織内での自分の立ち位置を判断したり、求められている役割と自分のやりたいこととの差を明確につかめるようになってきたのも、このころ。

 
 
一方、いま、迎えつつある変化というのは、人とつながるときの心の在りようにまつわるものだ。

 
これまで私は人とつながるのを避けてきた。
自分がすすんで誰かとつながりを持った場合、そこに何らかの責任が生じると思っていたためだ。

ひとたびつながりが完成すると、その相手をできるだけサポートしたいという強い気持ちになる。
そこで、全身全霊をもって相手にアンテナを向け、何があってもすぐさま反応できるように待機電力を消費しまくっていた。

私にとって「つながり」は、「濃いつながり」以外のものを指し示すことのない言葉だった。

 
そんな「つながり」はしんどい。
そんな重い「つながり」は、一度にたくさんは引き受けられない。

 
だから、これまでずっと、つながりを作ることを避けてきていたというわけだ。

新たな誰かと強いつながりができてしまうたびに、それまで最も強くつながっていた人との絆を断つ、ということもしてきた。

つながるのがしんどいなら、つながらなければいい。
これ以上、誰ともつながらないこの身軽さを、どうして捨て去る必要があろうか。

 
 
 
そしてまた、今回も理屈はない。

その日、なぜか私は、
「つながりのすべてに責任を持つ必要はない」
ということを知っていた。

いつ知ったのか、境界線は明確ではない。
ただ、その認識に自分で気付いたのは「つながりの責任」について同僚に話したときで、そもそも同僚にそんなプライベートなことを話し始めた時点で、私の意識はすでに変わっていたわけだ。

 
 
先月、mixiを始めた。IDが3200万番台(8ケタ)という新米さ。

mixiなんて、少し前まではもってのほかレベルだった。

誰かのところに行けば「足あと」が自動で残り、「来てくれたのに、なんでなにもコメントしてくれなかったの?」とリアルでトラブルになるとも聞いていた。

しかし今は、そんな怖いところじゃないと知っているし、つながりに伴う責任なんて、いちいち必要ないのだと気付いている。

あんなにうっとうしいと想像していた「足あと」も、いまや逆に、訪問先から足あとが返ってこないと寂しさを感じるくらいだ。

この身軽さは、なんだろう。

無責任な身軽さではない。
つながりの責任を自らに課していたころの気構えもきちんと根底に横たわっている。

しかし身軽だ。

つながりを忌避することで得ていた身軽さとの、この明らかな差異。
この新たな身軽さを、どうして捨て去る気持ちになろうか…。