2010年6月8日火曜日
信じる → 信(シン)+する
信じる、感じる、通じる、愛する、徹する、察する…
よく見ると、これらはみな「漢字の音読み+する」で成り立っている。
漢字の音読みとは、つまり漢語だ。
信シン、感カン、通ツウ、愛アイは、和語(やまとことば)ではない。
漢語の熟語に「する」をくっつけて新しい動詞を作るのはふつうのことだ。
勉強する、通学する、発散する、憤慨する、安堵する…と、いくらでもある。
冒頭の例は、熟語ではないが、
漢字ひと文字の音読みに「する」をつけて動詞にしたものだ。
やまとの民はかつて、記録に有効な文字を持たない民族だったという。
そこに大陸から漢字がやってきたから、うまく取り入れた。
もとからやまとことばにあった概念とすり合わせて
漢字を読み訓らしたのが訓読みであり、
大陸や半島で発音されていた音を取り入れたのが音読みだ。
大陸から輸入された概念や物は、
つまりそれまでは日本にはなかったものだから、
むろんそれらの名前は外来語だ。
梅、馬、菊なんて、日本語みたいだけど、
その読みである、うめ、うま、きくは当時の外来語なのである。
いまの中国語で梅はメイ、馬はマーというが、
古代でも似たような発音だったとすれば、古代やまと民族の耳には
「んめー」「んまー」と聞こえたのだろう。
かつては「むめ」「むま」と表記していたというから、
まんざらハズレでもないようだ。
つまり、
古くからありそうなことばなのになぜか漢字の音読みしかなく、
とりたてて言い換える言葉も見当たらないというものは、
じつはその概念やものが海外から輸入されたから、
という可能性が言えるわけだ。
漢字の読み方は、ことほどさように
古代やまと民族の概念の幅、当時のボーダーをも教えてくれる。
あだしごとはさておき、
「信じる」は、
漢語「信シン」に
「する」の古語(文語体)「す」の変形「ず」が
ついたものだ。昔は「信ず」だった。
同じように、
「感カン+ず」「通ツウ+ず」「愛アイ+す」…である。
不思議なのは、
「信じる」とか「感じる」とか「愛する」とか、
人間にとってすごく基本的な概念が、
「漢語+する」で表わされていることだ。
しかも、「信じる」なんて、和語で言い換えがきかない。
あえて言えば「頼む、恃む(たのむ)」だろうか。
「感じる」はどうだ。
思い付くのはせいぜい「覚ゆ(おぼゆ)」か。
和語に言い換えができない概念は輸入概念だと仮説したが、
信じること、感じることそのものが輸入概念だなんて、
真に受けられる話ではない。
これは単に、
今の言語感覚でいう「信じる」と「たのむ」の間に
ひらきが生じてしまっているために、そう感じるだけと信じたい。
そう感じるだけと信じたい。
そう覚えるだけとたのみたい。
今の言語感覚ではどちらが意味が通りやすいか、一目瞭然だ。
いま、「覚える」も「たのむ」も、
その言葉のうちにまったく異なる意味が複数ある。
おぼえる【覚える】
1、心にとどめて自分の知識とする。身につける。 2、感じる。
たのむ【頼む】
1、してほしいと相手に願う。 2、あてにする。信頼する。
かつては、これらを区別する必要がなかったのだろう。
やがて概念が細分化し、言いたいことを明確にするにあたり、
漢語を借用したのかな、というのが一応の結論だ。
(「信じる」「感じる」が漢語由来の概念だったらどうしようかと、
はじめは正直うろたえた。)
日本語は豊かな言語だ。
その豊かさは、漢語によって相当に底上げされている。
しかし、まったく原始的な感情や意識の働きまでもが、
じつは漢語で表現されていたということには、改めて驚愕した。
「信じらんなーい」「感じちゃう~」なんて
読んだり聞いたりするとき、
誰もそれが漢語だなんて思ってないんじゃないか。
かなり、かなり、驚きである。
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平安時代に日本書紀(漢文)の訓読が行われ、
返信削除用命天皇紀で「天皇信仏法尊神道」を「すめらみこと ほとけの みのりを “うけ”たまひ かみの みちを たふとびたまふ」と訓読していたそうです。(孫引きなので原文に当たっていません。)
昔は「信じる」は「うく」と言っていたことが分かります。現代でも「まにうける」という言い回しが残っています。(まさに上でブログ主様が使っていますね。)また、「信仰する」という行為を表す「まつる」は現代でも使われています。
行為は同時に内的な信仰心を証明するものですから、わざわざ「○○の神をうけている(信じている)」と言いまわす必要はなかったでしょう。だから「うく」という動詞はあまり使われなかったのかもしれません。
たいへん興味深いコメントをありがとうございます!
返信削除なにぶん浅薄にて、まことにお恥ずかしながら、日本書紀および万葉集の訓読事業が奈良時代に行われたことについて、
何も存じませんでした。またひとつ、日本語への興味深い扉が開けました。感謝いたします。
さて、本件についてちょっと検索するだけで、おもしろい論文が出てきますね。
奈良大学のアーカイブにあった『古代日本語における 「信ず」 の成立まで』という論文によると、
日本書紀では一貫して、「信」の訓みとして「う‐く」が当てられていたようですね。
「う‐く」「う‐ける」は、広い意味で、相手を受け入れる、相手の意を受け止めるというような意味用法が感じられます。
日本書紀の訓読は書紀の成立直後から始められていたようですが(書紀講筵)、
それをくだること300年、源氏物語のころにはすでに「信ズ」の用法があるとか。
現在に伝わる「信 う‐く」の訓読は、いつの時代の「常識」なのかな、とまたまた興味深くなりました。
素晴らしい。
返信削除完成度の高い考えさせられる記事ですね
おほめいただき恐縮です(*^_^*)
返信削除最近は私生活が異常に多忙なため、なかなか思うにまかせませんが、
今後もまたこうした記事を載せてまいりたいと思います。
ありがとうございました♪