2011年1月26日水曜日
「メジカ≠雌鹿」である理由――四つ仮名のジ・ヂ、ズ・ヅ――
私が某新聞社の出版部にいたとき、
表記で本当に悩んだ経験がありました。
秋にとれる鮭の一種「目近」を
カタカナで表記している文を校正するにあたり、
これを「メヂカ」とすべきか
「メジカ」とすべきかで悩んだのです。
脂がのった秋鮭の中でも
「目近」と呼ばれるものの味は最高で、
何万尾に一尾とれるかどうかの
幻の魚だそうです。
この鮭が「目近」と呼ばれるわけは、
顔がこぶりで鼻先に「目が近い」ためだとか。
悩んでいた文というのは、
取材した記者に向かって漁師さんが
「この鮭は目が近いからメヂカって呼ばれるんだよ」
と説明しているくだりでした。
「メがチカい」んだから「メヂカ」
……とするのが妥当のように思えます。
しかしそれをグッとこらえて、
「メジカ」とした記憶が鮮明です。
まるで昨日のことのように思い出されます。
その結果、その文は
「この鮭は目が近いからメジカって呼ばれるんだよ」
というチグハグなものになりました(泣)。
私や、私の上司が悩みながらもそうした理由は、
その新聞社の独自のルール(たぶん)で
「動植物の名前にはヅ・ヂは使わない」
としていたためです。
「じゃあ、鍋鶴はナベズルなのかよ!」
なんて、聞き分けのないことを
言いたくなったものでした。
ところで、その新聞社でも鍋鶴は
「ナベヅル」でOKだったのだと思います。
理由はもちろん、
「鶴」はもともと
「ツル」という動物名であることが大前提で、
これに「ナベ」がついた結果
「ツル→ヅル」のように濁ったからです。
(これを「連濁」といいます。)
「メヂカ」の場合は、
「チカ」という動物名があるわけではなく、
「目近」の一語でその鮭を表わしているので、
残念ながら(?)「メジカ」と
されてしまったわけなのです。
★
さて、「ヅ・ヂ」の用法については、
1946年11月の内閣告示「現代かなづかい」、
1986年7月の内閣告示「改定 現代仮名遣い」、
1954年3月の国語審議会報告「外来語の表記」、
1991年6月の内閣告示「改定 外来語の表記」
で「目安」が提示されています。
両者を要約すれば、
●通常の口語を表記する際には、
旧仮名遣いである「づ」「ぢ」は
基本的には使用しない。
●しかし、本来「つ」「ち」で始まる語
(特に和語、やまとことば)に、
ほかの語がくっついたり、
同じ言葉が続いたりする関係で
「つ」「ち」が連濁したと考えられるものは、
「づ」「ぢ」と表記する。
(例:三日月=みかづき、散り散り=ちりぢり、続き=つづき)
●ただし、漢字の音読みには
「ヅ」「ヂ」は使用しない。
(例:地震=ジシン…「ジ」は音読み)
●外来語については「ヅ」「ヂ」は使用しない。
……って感じになりますかね。
ここには、先にかかげたような
動植物名についてのルールに言及はありません。
「動植物の名前にはヅ・ヂは使わない」というのは、
やはり某新聞社の独自ルールの線が濃厚ですね。
……と思っていたところに、
最近、思わぬ例を目にしました。
それは「ルリジサ」です。
★
天然のエッセンシャルオイルを配合した
化粧水を購入したとき、
なにげなくその成分表示を見ていて
発見したのが、この「ルリジサ」。
「ルリジサ油」と書かれていたと思います。
ルリジサがルリヂシャ、すなわち
「瑠璃(るり)」
+
「萵苣(ちしゃ・ちさ)」
のことだと気づくのに数十秒。
萵苣とはレタスの仲間を表わす和語です。
辞書では「ちしゃ」が優先で、
「ちさ」ともいうとか、
昔は「ちさ」だったけど
今は訛って「ちしゃ」になった、
などと書かれています。
(ルリヂシャは青い花が咲く品種で、
この種からとれるエッセンシャルオイルは
美容効果が高いことで有望視されています。)
「ちしゃ」はれっきとした和語、やまとことばで、
「萵苣」という語は音読みなら「ワキョ」となります。
つまり、「百合」などと同じように、
もとから日本にあった和語に中国の字をあてて、
読みはそのままやまとことばを
使用した熟字訓なのですね。
やまとことばなのだから、
「外来語の表記」にしたがう必要はありません。
堂々と「ルリヂシャ」としていいはずです。
動植物の名前はしばしばカタカナで表記することがありますが、 それは外来語的な扱いではなく、
和語をカタカナ書きにする生物学の
慣例を採り入れたものなわけですから。
それに加えて私の場合は、
「ちしゃ・ちさ」はそもそも見慣れない、
耳慣れない言葉ながら、
かろうじて馴染みがあるのは
「ちさ」ではなく「ちしゃ」だったため、 「ちさ」の採用に戸惑いを感じました。
このような二重の戸惑いを感じる人は、
あまりいないのでしょうね。
「チシャとはレタスの仲間の萵苣のことだ」
なんて、多くの人は考えません。
馴染みのない言葉だからこそ、
ふだん使い慣れない「づ・ぢ」の使用に
抵抗を覚えるのはいたしかたないかとも思います。
それに、「ルリヂシャ」より
「ルリヂサ」のほうが言いやすい。
これは否定できません。
結果、「ルリジサ」ができあがるわけですね。
エッセンシャルオイルのボトルなどに 「ルリジサ」と書いてあるのを見るにつけ、
語本来の意味が失われている様子が感じられ、
不思議な気分になります。
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��その新聞社の独自のルール(たぶん)で「動植物の名前にはヅ・ヂは使わない」
返信削除これに従わなかった場合だれが不幸になるんでしょう?
「改定 外来語の表記」でも「基本的に使用しない」と但し書きが付いているように、明らかに「目近」なのだから例外として「メヂカ」でいいと思うのです。「メジカ」が既に人口に膾炙した魚ならともかく、何万匹に一匹のレアものならば例外扱いでもいいでしょうに。
なによりその新聞社のそのルールが作られた経緯を知ればどの様な時には例外を適用してもいいか分かるはずです。「メジカ」の時は時間が無かったかも知れませんがぜひ掘り下げて欲しかった。新聞社の方が今後も意味の無いルールに振り回されることのないために・・・。
ごもっともなご意見、まったく耳が痛いです。
返信削除当時の私の立場が「新聞社に出向しているフリーランスであった」こと、
さらに「新聞社のなかの出版部で、フリーペーパーの校正をしていた」ことを付け加えなければならないかもしれません。
社外の人間が社のルールに意見をするのはとても難しかったですね。
上司は社員でしたが、赤字媒体にお金(時間と手間)をかけるわけにはいかないこともあり、
表記について管理している部署に問い合わせたり、会議ではかったりすることもなされませんでした。
いま思えば、ここできちんとしていれば「意味のないルール」がその先で見直されたかもしれませんでした。
うーん、当時のことがますます口惜しくなってきましたね…。