久しぶりに、「自分が変わりつつある」ということをハッキリ自覚している。
そういう変化を初めて感じたのは、17歳のときだ。
自分と、自分を取り巻く周囲を客観的に見渡すことを覚えて、
(というより、突然それができるようになり、)
(もしくは、自分がそれをしていることにハタと気付き、)
そのときはまだちっぽけな「全体」だったろうけど、そのときなりに「全体」を俯瞰することの有用さを知った。
組織内での自分の立ち位置を判断したり、求められている役割と自分のやりたいこととの差を明確につかめるようになってきたのも、このころ。
一方、いま、迎えつつある変化というのは、人とつながるときの心の在りようにまつわるものだ。
これまで私は人とつながるのを避けてきた。
自分がすすんで誰かとつながりを持った場合、そこに何らかの責任が生じると思っていたためだ。
ひとたびつながりが完成すると、その相手をできるだけサポートしたいという強い気持ちになる。
そこで、全身全霊をもって相手にアンテナを向け、何があってもすぐさま反応できるように待機電力を消費しまくっていた。
私にとって「つながり」は、「濃いつながり」以外のものを指し示すことのない言葉だった。
そんな「つながり」はしんどい。
そんな重い「つながり」は、一度にたくさんは引き受けられない。
だから、これまでずっと、つながりを作ることを避けてきていたというわけだ。
新たな誰かと強いつながりができてしまうたびに、それまで最も強くつながっていた人との絆を断つ、ということもしてきた。
つながるのがしんどいなら、つながらなければいい。
これ以上、誰ともつながらないこの身軽さを、どうして捨て去る必要があろうか。
そしてまた、今回も理屈はない。
その日、なぜか私は、
「つながりのすべてに責任を持つ必要はない」
ということを知っていた。
いつ知ったのか、境界線は明確ではない。
ただ、その認識に自分で気付いたのは「つながりの責任」について同僚に話したときで、そもそも同僚にそんなプライベートなことを話し始めた時点で、私の意識はすでに変わっていたわけだ。
先月、mixiを始めた。IDが3200万番台(8ケタ)という新米さ。
mixiなんて、少し前まではもってのほかレベルだった。
誰かのところに行けば「足あと」が自動で残り、「来てくれたのに、なんでなにもコメントしてくれなかったの?」とリアルでトラブルになるとも聞いていた。
しかし今は、そんな怖いところじゃないと知っているし、つながりに伴う責任なんて、いちいち必要ないのだと気付いている。
あんなにうっとうしいと想像していた「足あと」も、いまや逆に、訪問先から足あとが返ってこないと寂しさを感じるくらいだ。
この身軽さは、なんだろう。
無責任な身軽さではない。
つながりの責任を自らに課していたころの気構えもきちんと根底に横たわっている。
しかし身軽だ。
つながりを忌避することで得ていた身軽さとの、この明らかな差異。
この新たな身軽さを、どうして捨て去る気持ちになろうか…。
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